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家族で留学109日目 びっくりする形で車が突然与えられました。

皆さんこんにちは!黒川です^^
いつもお祈りとご支援をありがとうございます。

あっという間に留学生活も100日を超えました。短期留学生なら日本に帰っている時期ですね。私たちはあと2年は残っている予定です。日本の何が恋しいって、食べ物とコンビニとかスーパーとかいつでも行ける環境です。日本のコンビニと自販機は最強です。私は自販機の缶コーヒーが大好きなのですが、こちらには缶コーヒーがありません。友人に自販機を紹介したら、
「ベンディングマシーンでコーヒーが飲めるのか?」と質問されました。
僕が「ブラックもカフェオレも、ホットもアイスもあるよ」と言ったら、驚いていました。外に自販機があってお金は盗まれないのか?とか聞かれました。たった3ヶ月ですが、とにかく日本は便利で安全ということを実感しています。

さて、今回のブログタイトルにもあるように、かねてから必要としていた自動車が与えられたのでそのことについてお話したいと思います。クリスチャンでない方には、そんなことあり得るのかと思う内容も含みますが、ノンフィクションの実話です。

アメリカに来て、ここの生活がスタートしたすぐの時点で私たちはとても大きな苦痛を抱えていました。それは、自動車がないと外部に出られないどころか、買い物すら出来ないという環境でした。留学生活9日目のブログに書いてあります。

そう、ここアメリカは完全に自動車社会だったんです。一人に一台車があるのが普通というのですから、日本で言うところの自転車なみの存在が自動車です。そして、自動車に乗車した状態でないと夜間は危険で外には出られません。だから、買い物だけではなく、基本的にずっと学校の敷地内で生活していました。

学校の敷地がかなり広いので窮屈なことはないのですが、子供を連れていける場所は敷地内の公園だけなんです。子育ても大変だし、買い物も出来ないしで、この環境を受け入れるのに時間がかかりました。

じゃ、車を手に入れるということに関してはどうかというと、まずお金がないので買えません。入学金と1セメスターの授業料を納めた時点で私たち家族の貯金はほぼなくなりました。私たちには現在、日本の銀行に70万円の貯金があります。それは、二人の娘のためにそれぞれの名義で開いた口座に入っているお金なので、基本的に私たちが使うものではないお金です。そして、私たちはキャリーバッグ4つでアメリカに来て、それ以外の資産は全て処分したので、家や車、家具家電類などの資産と呼べるものは日本国内にも一切持っていません。ただ神様への信仰と体だけでアメリカにやってきました。それ以前も非課税の所得なので、貯金ができる状況にはなく、ただただ神様が必要な時に仕事と収入を与えてくださいました。なぜか収入は少ないのに豊かな暮らしができました。

Kii
Kii

なぜかといえば、神様が備えてくださっているからなんです。

Kuro
Kuro

無謀だろと思われても仕方ない行動ですよね。

私たちは結婚のプロセスから神様が様々なミラクルを通して導いてくださった経験を沢山していまして、今更神様から外れた人生を送ることは出来ません。だから今回も、神様が必要なら与えてくださるし、そうでなければ諦めるしかないという流れになりました。しかし、そうなるには1月半掛かりました。それまでが、自転車でいつでも買い物やお出かけに行ける環境にいましたから、特に生活の縛りがあるのは馴染めないポイントでもありました。

そんなこんなでその時は突然にやってくるのでした。

10月6日(日)
この日、教会での礼拝を終え学校の寮に帰りました。アメリカに来てからというもの、いつも日曜日は教会の牧師先生が送り迎えをしてくださっていました。私たちはどうにか車を手に入れることはできないかとその日まではどこかで期待をしていました。しかし、たまたまその日の夜に私たちは話し合いの中でこのように結論を出しました。

車は諦める。無いなら無いで生活しよう。

なぜかというと、アメリカは30万キロ走っていても自動車が売れるんです。なので、日本では見たことのないようなボロボロの車も多いんです。

車を安く買ったけれど、メンテナンスが大変だと言う話もよく聞きます。まず、私たちが買えたとしてもとても安い車だから、当然にボロボロであろうということ、そして、仮にもし誰かがくれるとなったとしても同じかそれ以上にボロボロの状態が想定されるということ。日本人である手前、あげると言われたら断れない。

だから、私たちは車を手に入れるということ自体を手放しました。期待もせず、もう無いなら無いでそれが神様が私たちに与えられる環境であれば、その中で喜びを持って生活していこうと結論をしました。だから、以降、車のことは考えないし話さないようにすることに決めました。完全に手放しました。

 

10月7日(月)
朝8時のモーニングチャペルの直前、学校の先輩(ブラジル人夫婦)に声をかけられて

「今日の夕方5時に時間ありますか?」

と突然聞かれました。私たちは特に予定がなかったので「はい」と答えました。どうやら大事な話しがあるようで、そのために日本人の通訳も同行するとのことでした。

約束の時間になり、その夫婦が私たちの部屋へやってきました。
すると、そのまま外に行きましょうというのです。なんのことか全然わからないまま、言われるままに外に行きました。

そして、一台の車の前に止まり、

「この車どうですか?」と聞かれました。

私は「はい?」と答えました。言っている意味がわからなかったからです。

すると彼は「Good?」と聞いてきました。

私はその車がかっこよかったので「Good」と答えました。

すると、彼らは「This is your car.(これはあなたたちの車です)」

と言いました。突然のことに私たち夫婦は唖然としました。これは、ドッキリだと思いました。本気でドッキリだと思いましたが、彼らが本気なので、すぐに神様の御業なんだと分かり涙が溢れてきました。

実際の車の前で記念撮影

 

ここからが今回のブログの大事なポイントに入ります。
実は彼らは、数ヶ月前からこの自動車を誰かに譲るということが神様によって示されていたということなんです。神様は私たちがアメリカに来る前から彼ら夫婦にこの車のことについて既にご計画を持っていました。そして、それを祈りの中で彼らに伝えていました。

ただ単に、この車を誰かにあげなさいというだけなら、その時点で彼らは誰かにこの車を譲っていたことと思います。(この学校で車が欲しい人はたくさんいます。)しかし、それが誰なのかは示されていなかったので、それが示されるまで祈り続けていたとのことです。そして、その答えが数カ月後に与えられ、それが私たち家族だったというのです。

私たちにとっては、最終的に車のことは手放すということで結論を出した次の日でした。これはどういうことかというと、自分たちの力では出来ないから神様に完全に委ねるという日でした。そして、その次の日に神様はこの車を与えてくださったのです。それは、私たちと先輩夫婦と神様との三者がリンクして行われたまさにゴッドタイミングだったのです。

あとから分かったのですが、このご夫婦にとってこの自動車は彼らが所有する唯一の自動車であったとのこと。自分たちの生活を犠牲にしても、神様のコーリングに応答してそれを実行する姿は車以上の恵みを私たちに与えてくださいました。その犠牲はまさしく私たちの罪のために十字架にかかったイエス・キリストを体現している姿だからです。

彼らは「この車は私たちの車ではなく、神様の車です。神様があなた達に与えられたものです。」

と言いました。同じく神様を信じる私たちにはその言葉の意味がしっかり分かり、神様を賛美してもしきれない畏れと感謝と喜びが湧き上がりました。

その出来事から2ヶ月が経ち、ようやくテキサス州の自動車免許を取得し自由に車で移動できるようになったのが今週です。念願だったすぐ近くの動物園に行くことが出来ました。スーパーにも家族だけで自分たちの行きたい時に行けるようになりました。

普通のことが普通ではなく、いつも感謝が必要だと改めて実感させられるそんな留学生活です。

神様はここまでも、現在も、そしてこれからも私たち家族を導いて全ての備えをしてくださっていることを確信します!

免許の取得に時間が掛かりご報告が遅れましたが、神様は素晴らしい備えをしてくださっていること感謝です。日本や韓国でお祈りしてくださっている方々の祈りが確実に答えられていることを実感しています。ありがとうございます。

こんなに長いブログを最後までお読みいただきありがとうございました。

新約聖書 マタイの福音書(新改訳第3版)
6 24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
6 25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6 26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
6 27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
6 28 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6 29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
6 30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6 31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6 32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6 33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6 34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
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