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家族で留学139日目 32歳で男性乳がんになってから8年、40歳になりました。

皆さんこんにちは!黒川です^^
いつもお祈りとご支援をありがとうございます。1月10日に40歳になりました!

最近は長女のYUA(5歳)が度々お祈りするようになってきました。特に私や妻の体調が悪いときにすぐ、癒やしのお祈りをしてくれるんです。しかも、その場で癒やされることもあり、子供の祈りは神様特別聞いてくださるのかなと感じることもあります。また、そんな娘の姿をみていて、イエス様が言っている信仰とはこういう姿なんだと感じています。

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
新約聖書 ルカの福音書18:17

また、十二弟子の一人であるヤコブはこのように記しています。

:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
新約聖書 ヤコブの手紙 1:5-8

大人になると様々な知識や経験が邪魔をして、疑わずに信じるということができなくなります。それが、子どもは神様と神様の力をそのまんま信じているので、やるんです。これは子ども故の恵みと感じます。
私自身、26歳でクリスチャンになったとはいうものの、すぐに神様から離れて自分勝手に生きたという過去を持っています。そんな中、本当に神様を受け入れて信じて祈ったのは、32歳でがんになったからでした。
自己中心の生き方から、神中心の生き方に変えられ別人のようになりました。私はがんになったことにより、人生で初めて自分自身の肉体の死を考えたのだと思います。32歳でがんになって以降、肉体の死は私にとって身近なこととなりました。それはどういうことかというと、いつ死んでもおかしくないということです。ただ、がんになったからがんで死ぬとか病死するということに限らず、あらゆる可能性をもって自分自身は今にでも死ぬ可能性のある存在であるという認識です。
そして、がんとセットで神様と人格的に出会い、イエス・キリストの十字架の血による贖いを頭の知識を超えるレベルでが理解できたことで、肉体の死ということが絶望から希望に変化しました。
どういうことかといいますと、自分は今すぐにでも死ぬ可能性があるし、いつかは100%死ぬということが確定している存在であるということ。それを認識した上で、その死ということそのものが希望になったんです。
がんを宣告された直後の私は、まだ神様から離れた存在でしたので自分が死ぬということは絶望そのものだったんです。一体自分はなんのために生きてきたのだろうか?自分が死んだとしても、世界はなんの変化も無くただこの時代と時間の流れに合わせて進んでいくんだということを考えたときに、なんとも言えない深い寂しさを感じました。そして、まさしく絶望となりました。この一言に尽きます。
しかし、このがんをきっかけにして、私に与えられた命や人生について本気で考えることとなり、ある意味生まれてはじめて自分が神様によって生かされている存在なのだと知ることができました。

日本という国に生まれ育ち、自分が頑張れば何でも手に入る環境にいた私は、それまで一切神様を必要としなかったのだと思います。なぜなら神様がいるのだとしたら、今の自由はなくなると思ったからです。信じたらバチが当たるから信じないほうがいいような生き方でした。しかも自分は猿の子孫だということを本気で信じていたので、偶然に生まれた自分の人生は自分の物、自分が良ければそれでよい。そんな考えさえありました。

しかし、実際には、自由に思える不自由の中に生き、罪が罪とも分からず人生を蝕む悪に染まっていったのでした。犯罪をしていない、前科が無い、ばれない、それは私の職歴は汚さなくても私の心と霊を汚していきました。法律は破らなくとも、神様が望むこととはかけ離れた生き方をしていたのでした。

私は、この全宇宙と地球と人を創られた神様がいなければ生きることさえできない存在だったことをがんになって初めて知ったのです。太陽と地球と空気と水とこの世のすべて計算され尽くした神様の仕組みがなければ、自分は存在すらできないということ。そんなことは、日本に生まれ育った私の人生には考える機会すらなかったのです。だって、偶然の爆発によって全てが存在していることを本気で信仰していたのですから。

様々な悪事を行うという罪がありますが、そんなことより最大の罪を自分が犯してきたのだと思います。それは、神から離れていたという罪でした。

ちょうど、お金と人脈を失った直後だったので、ある意味生きる希望がなくなった私が最後に与えられたのががんでした。すんなり神様と出会う方もいれば、私のように人生のどん底まで味わわないと出会うことのできないという方もおられるでしょう。

私は、神様の愛によってがんが与えれられ、人生が変えられたのでした。決して自分の努力ではないということをお伝えさせていただきます。

だから、冒頭に出てきた長女、次女、そして今後共に宣教の道を進んでいくパートナーである妻の存在も、がんがなければ無かったんです。特に、子どもは存在すらしなかったんです。その人生が無かったと思うとゾッとします。しかし、冷静に考えても、今の妻と私が結婚するということはありえないことなのです。100%絶対に私が今の妻とは結婚することは無かったんです。がんによって私が神様と出会い、変えられたその中でこの家族が出来上がったのです。

そして、今育んでいるこの家庭はとても祝福に満ちているのです。これは、私の自慢ではなく、本気で神様が働いてくださっているからだということをお伝えさせて下さい。私も妻も決して立派な親ではありませんし、そんな要素は微塵も無い存在です。特に夫であり父である私はただのゲス野郎だったので、イエス様の十字架の血による贖いによって神様との関係回復があったからこそ夫であり父である今の生活を行うことができるんです。

普通の人が普通の家庭を育むということはなんの珍しいこともないですが、私が普通の家庭を育むということは奇跡でしかありません。それほど、神様というお方は凄い方なんです。すべての栄光を神様がお受けになってくださ〜い!!!!

ちょっと興奮してしましましたが、そのようにして変えられた人生を歩み、8年が経過しました。再発の心配は無いということを言われていても、がんになってからは常に死を意識した生活になっています。でもそれは、与えられた人生をどう生きるかということに直結しているので私にとって恵みです。妻との関わり、子どもたちとの関わりにおいてとても重要な役割を果たしていると言えます。そして、どれだけアンチエージングと延命措置をしても100%死ぬということで、私は死の先にあることに希望をもって歩んでいます。クリスチャンにとって肉体の死は希望につながるものです。それは、悲しくない辛くないということではありません。しかし、クリスチャンであろうとなかろうと、死別や自分の死というのは必ず向き合わなければならないときが来ます。その肉体の死が希望ということは、この限られた人生を生きる上でどれだけの恵みでしょうか。

こんなこと、がんになっていなければ考えもしなかったことでしょう。とにかく、神様は私を40歳までは生かしてくださいました。ありがとうございます!

そして、まだ生かされているということは、神様が私にこの地上でなすべきことを用意しているということです。その使命がある限り、その使命に生きていきたいと思います。もう、自分自身が神になって自分の人生をコントロールするようなことが無いように、神様にすべてをお捧げします!引き続きお祈りお支えいただけましたら感謝です!

心から神様を賛美します!ハレルヤ!

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